【第2章 「YS生産組合」、後の「ワイエスアグリプラント」ができるまで】(2/5)
−今日に至るまで、「ワイエスアグリプラント」の設立や「そら野テラス」の前身である「越後西川あぐりの里」開店を手掛けてきたファウンダー(創業者)のお一人でもありますが、どんなことがきっかけで、どのように成し遂げてきたのでしょうか。
平成5年の凶作が大きな転機になりました。それまで、他の役員二人も俺も他で勤めながら農業をしていたんですよ。そんな中で勤め先のお客様から「藤田さん、農家なんだから米譲ってよ。」と言われたことが今の形の始まり。当時、食料管理法がある中で、ちゃんと手続きをとった特別栽培米なら販売できるということで、平成6年産の米から販売することになったんです。
実は、俺達が一生懸命作った品物の等級が低いというだけで、決められた価格でしか売れないということが面白くなかったんです(笑)。周りに米が無い中、お客様が欲しいと言っている場合は、値段が多少高くても買ってくれるわけでしょ。でも、2等と1等では、格差があって…。「お客様の顔が直接見えるところで販売できるんじゃないか、お互いに納得がいくやり取りができるんじゃないか」というところから始まったんです。で、どうせやるからには二足のわらじを履いていてもしょうがないから、思い切って会社を辞めよう、と。
会社を辞めた後、配管設備士の資格があるので、地元の農機具屋さんから依頼を受けて色んなところに行きました。当時、国がウルグアイラウンド*1の予算として6兆100億円を用意したことから、あちこちにライスセンターができた時代でした。ある日、そういった建物の施工のために人夫として手伝いに行った時のこと、十日町や山北の朝日村で、組合長さんらの考え方や、やっていることが非常に進んでいることに衝撃を受けました。グループを組んで国からの支援をもらいながら、自分達の乾燥調整施設を作りグループで品物を集めて販売するということを行っていたんです。
一方、旧西川町では、そのような組織はなく「俺達は減反ばかりしているけど、一体何やっているんだろう」って思いました。一緒に仕事に行っていたおじいちゃんと話しているうちに「じゃあ俺達もそういうことをやろうよ」となって、大豆の生産組合を始めたんです。
それまでは、調整水田や青刈りなど減反作業ばかりに専念してきてほとんどお金になっていませんでしたが、お金を生み出すためにちゃんと組織を作り、地元農家の人達の田んぼを預かって大豆を作って販売しよう、と。そして、俺達も小遣いを稼ぐんだ、と。地元農家の人達も俺達に田んぼを任せることで、集落に補助金が入るので、一石三鳥という構図になりました。そういった流れで出来たのが「ワイエスアグリプラント」の前身「YS生産組合」なんです。
−「ワイエス(=YS)」の意味についても教えていただけますか。
単純なんですよ。小出会長の集落が「汰上(よりあげ)」で、俺の所が「鱸(すずき)」だから、その集落名のイニシャルなんです。
−国の減反政策や平成5年の凶作という、どちらかというと負の要素をチャレンジに変えていったということですね。
チャレンジに変えたっていうとかっこいいですけどね、それらが、ポンとひとつ前に進むきっかけにはなりましたね。
昭和46年に、俺は高校を卒業したんですけど、それと同時に国の減反政策が始まったんです。俺達、高校生の時は、農業クラブの全国大会で、米の「1トン取り」と言う、米をいっぱい取る技術を競う収穫競技をやっていました。
それが高校を卒業して俺達が稲作を始めた途端、「(米を)取り過ぎてしまったから休んで減らしなさい」という方針に変わったんです。当然モチベーションは下がりますよね。今まで「いっぱい取る=いっぱい売れる=収入が増える」だったのに、卒業する頃には「いっぱい作らないように」と。だから農家の長男が、農家を継がずにどこか別のところへ稼ぎに出るということになっていったんですよね。
−兼業農家が増えたということですね。戦後、食糧不足の時代からの政策が続いてきた中で育ってきたのに、高校卒業したら減反だ、と。
今まで俺達が勉強してきた技術が生かせなくなってしまったんです。「農業なんて…」と面白く無くなってしまったんですよね。
俺達が子供の頃、国は食糧を管理し、逆ざや方式で米を農家から高く買い、市場に安く流してきたわけだけど、収穫し過ぎれば、当然、国の支出が多くなるわけだから赤字がつきまとうわけです。そこで、純ざや方式に是正しました。安く仕入れて高く売ることで利益を出していくというスタイルに、当然、変わりますよね。
−減反してしばらくすると凶作になり、その後、「作る自由、売る自由」という新食糧法が生まれましたね。
平成7年に、平成6年産の米を売り始めたわけですが、その時はまだ食糧管理法の時代で、翌年の平成8年から、新食糧法に変わったんです。「作る自由、売る自由」という中の「自由」という言葉は、農家を非常に惑わせる言葉だなと感じました。本来は、国がある程度の量を示し「それ以上になる場合は減反しなさい」と言った方が簡単でしょう。そうすると全体のボリュームも価格も維持できますし。でも減反政策だけでは、結局、価格を維持することはできなかったんですけどね。当時は「全員、右に倣え」で、減反の目標を達成できなければ、その集落全体に補助金が入ってこなかったですし、それを集落単位で管理されているので、自分達だけ従わないわけにもいかない、そんな状態だったわけです。
−減反による補助金は集落にとって大事な資金源ですものね。集落の人達に迷惑を掛けられないと。
皆さんのためにも生産組合で大豆を作れば、ちゃんと減反も達成できるという確信がありました。
−集落も助かるし国も助かるし。
俺達も日当がつくと。
−それが「YS生産組合」の成り立ちということですね。
*1(世界貿易上の障壁を無くし貿易自由化や多角的貿易を促進するために行われた通商交渉)
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