「ワイエスアグリプラント」の成り立ちから現在に至るまで、そしてこれからのこと。
「そら野テラス」を形作る現場の声で綴る、そら野ストーリーをお届けします。

【第3章 越後姫を作るようになったきっかけ】(3/5)

【第3章 越後姫を作るようになったきっかけ】(3/5)

−それで「ワイエスアグリプラント」がどのように進んだかというと。

最初の1,2年目は、設立した役員メンバーだけで、且つ、それぞれ冬場の仕事をちゃんと担保した状態で始めました。当時からのメンバーである小出会長は野菜や花を生産していたし、俺は米と餅の製造販売をしていました。そのうちに規模がどんどん大きくなり役員だけでは仕事が回せなくなってきたので、常時働いてくれる若い人が欲しいということで、最初に来てくれたのが現在のイチゴ担当者でした。田んぼを手伝ってもらうつもりで募集したんだけど、農業の経験がなかったので、これは時間がかかるかなと思っていたんです。その頃、たまたまいたずらでイチゴを始めていて…。

−社長自身の好物だったとか(笑)?

いやいやなんとなく。小さいハウスが一個遊んでいたので、イタズラでイチゴをやってみたら、そこそこ取れたんです。でも一度ハダニで大失敗してしまって、葉っぱが2、3枚になり…。でも、それからまた復活してまた実が成った。それを見た時に「イチゴって強いんだ、俺達にもできるかもしれない」と思いました。その頃、たまたま新潟県が越後姫を作る農家を募集してくれたんです。それで聖籠町の園芸試験場で1年間の研修を受けました。

−県が越後姫を普及したいタイミングと合致したと。

勉強しに行ったら冊子が用意されていて、この通りに作ったら「3トンは取れます」と云われました(笑)。で、やってみようじゃないかと。

−それが、「そら野テラス」の越後姫の始まりということですね。

俺が稲をやっていて、イチゴに手が回らないから、その担当者にイチゴを任せたんです。そういった意味では俺はツイていたんです。ちょうどひとつひとつの波が俺達のやりたいこととぶつかってくれて、その延長がこれ(「そら野テラス」)なんですよね。それに上手く乗れたわけです。



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